自給自足
永い間、世界の基軸通貨として君臨してきたアメリカドルは、
今では1ドル76円にまで価値を下げている。
これは一体どういうことなのか?
超大国アメリカがいくらドルの価値を声高らかに保証しようと
その価値は下がる一方なのだ。
永い間アメリカはその放漫経営のなか、何の裏づけも無いまま
紙であるがゆえにドルを刷りたい放題刷り続けたのである。
そして、そのことが明るみに出るようになり、ドルの信用はがた落ちになり
下がり続けているのが本当のところなのだろう。
日本の円は今のところ、世界からまだ信用されているようだ。
だが、日本の円にしても怪しいものだ。
公式の見解で、日本の借金は約1000兆円もある。本当は、もっとあるかもしれない。
世界の中で優等生といわれている日本でさえ、借金だらけなのだから、他はいうまでも無い。
結局、貨幣経済の行く末は、破綻以外ないのかもしれない。
それでも破綻させるわけには行かないから何とかしてしまうのが政治の世界だ。
貨幣経済という大海原に放り込まれてしまったら、もう何をやっても、どうあがいても
その大きな流れに逆らって泳ぐことはできない。
流れに逆らって泳いだところで、最後は沈んでいくだけなのである。
貨幣経済が初期の段階を経て成熟期に達すると、金融が経済の主流になってしまう。
何も作らないのに、お金を動かすだけで利益を産み出すバクチともいえるシステム(株・先物取引)。
次々と作り出されるバクチシステムによって莫大な不労所得を手にし、お金の力を最大限に利用して
欲望は無限に広がっていく。
そして二極化が進み、一部の大金持ちだけが優雅な暮らしを楽しみ、多くのものたちが貧困に苦しみ
奴隷のような生活に甘んじるようになってしまう。
だからといって私は貨幣経済を無くせなどといっているのではない。
貨幣経済ほど人類を発展させるシステムは無いのである。
貨幣経済があったればこそ、今のような進んだ文明・文化ができたのも事実なのだ。
私が言っているのは、貨幣経済は貨幣経済であり続け、一方で貨幣経済から離れたところで、
お金が無くても生きていける社会があってもいいのではないかと考えているのだ。
それが自給自足の社会、自給自足村だ。
貨幣経済で成功している人たちは、そこでその成功を謳歌して十分に人生を楽しんだらいいではないか。
自給自足村は、貨幣経済にうまく適応できない人の受け皿になればいいのではないだろうか?
お金が無くても食べること、寝ること、清潔を保つことができ、心豊かに暮らせる社会。
世の中の大半を支配してしまっている貨幣経済とは別のところで、一つの試みとして自給自足村を立ち上げられないだろうか?
ただ、まったくお金が無くて、自給自足生活を始めることは難しい。
貨幣経済を脱するためにも、やはり、まずはお金なのか?
農業をするための土地、住むための家、生活に必要な衣類・寝具・食器・調理器具や最低限の電気、水。
少し飛躍するが、仮にここまで何とかなったとしよう。
さあ、ここからどうするのか?